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日々を生きるということは、時間を過ごすということで、時間を過ごすということはどこかしらでその時間を過ごすということなわけですが、物理的な「場所」があっても、そこに「こころあらず」というようになったり、物理的に、物質的に「自分」が「そこ」にいるけれども、まるでそこに自分の存在はないように感じられたりする、ということも、もしかしたら日々の中であるかもしれません。
そこに人がいなくても、居場所として認めていい
居場所、と言ったとき、そこに心の通う友人や同僚やそういった存在があることが、わかりやすい「居場所」の1つになると思います。
ただ、「人」との関係性の中から自分の居場所を見出すのも1つですが、「人」だけでなく、「モノ」との間から自分の居場所を見出すのも1つの方法だったりします。
「人」というものの方が、「モノ」よりもあたたかみを感じて、いいと思うかもしれませんが、それに比べれば「モノ」というのはひんやりとした印象もあるかもしれませんが、「人」との間にできるものだけが「居場所」と認められたものでもないと思います。
できれば、心の通う友人がいたら嬉しい、自分を受け入れてくれる「人」たちがいてくれて、そこに居場所があったら嬉しい、と思うこともあるかもしれませんが、まずは、「モノ」との間に1つ、見つけてみるのもいいと思います。
モノの溢れた時代に、モノと出会う
「モノ」と一口に言っても、幸運なことに、「モノが溢れた時代」と言われる今の時代、一生かかっても知り尽くせないほどのモノがあります。
花、お茶、砂利道の小石、プラモデル、ギター、ピアノ、ハーモニカ、鉄道模型、本、音楽、
色々なモノがあります。
そして、このモノの中にも「大小」があったり、「光の強いモノ」「光がやさしいモノ」があったりします。
モノの大小
モノの大小と言ったとき、例えば、ドラムセットとかって、物質的に大きいですよね。笑
例えばそれに比べたら、ハーモニカは小さいし、リコーダーもそれなりに小さい。
楽器という括りで見たときにも、様々な「大小」があります。
その中で「大きい」モノって、それはお金的な意味でも大きなエネルギーが必要だったり、試してみようとしたときにも体力的に大きなエネルギーが必要だったり、何かと大きなエネルギーを必要とします。
なので、自分のそのときの状況に合った「大きさ」のモノに手を伸ばせればいいと思います。
別に大きなモノだから偉いということでもないし、すごいということもないわけです。
光がやさしいモノ
今、モノのサイズの大小という意味で、「大小」について話してきましたが、サイズだけでなく「光」の大小もあると思います。
例えば、アイドルって眩しいですよね。もしくは、アイドル的人気のあるバンドとかも眩しいかもしれないし、アーティストの「ライブ」というものも眩しいものかもしれません。
言ってみれば、「キラキラ」しているもの、っていうんでしょうか。
「キラキラ」にも色々なキラキラがあって、強すぎる光である太陽の光を肉眼で直接見すぎると、目にダメージがあるように、そのときの自分のこころに合わせた光のものを見れれば、触れられればいいと思うんですね。
もちろん、何か、一気に殻をぶち破りたい、という感じで思いっきり「光」の中に飛び込むのも1つかもしれませんが、それは本当に強くそう思ったときだけでいいし、そうせずにはいられない、というくらいのときにそうできればいいんじゃないかな、と思います。
音楽の中でも光のグラデーションはある
例えば、音楽の中でも、アイドルの音楽とか、超人気バンドの音楽とか、一方でまだまだマイナーなインディーズバンドの音楽とか、ギターの弾き語りをしているシンガーソングライターとか、色々光のグラデーションがあると思うんですね。
形も、ライブという生の、大勢の人の集まる光の強いライブもあれば、CDという形もあれば、iTunesでデータを250円で買って、iPhoneで1人静かに聴く、というのもあれば、雑貨屋さんでヒーリング音楽のアルバムを1000円くらいで買う、というのもある。
その中で、そのときの自分に合う光を選んで、触れられればそれでいいと思うんですね。
「人」と直接関わって居場所を作るのも1つ、間接的な形もまた1つ
このように、今はモノというものについて話をしてきて、そのモノそれぞれにも光の大小だったり、物質的な大小だったりあるから、自分に合った無理のないモノに触れられればOK、という話もしました。
そうやって、色々な「モノ」があるわけですが、そうやって「モノと自分」というところからはじめてもいいと思うんですね。
何なら、「モノと自分」で完結したっていい。
だって、「モノ」だって、そのモノには「作り手」がいて、それは人間なんですよね。
モノと自分の間で居場所を作っても、その「モノ」自体はだれか人が作ったもので、モノというものを介在して、その作り手と居場所を共有しているとも言えるわけです。
音楽であっても、その後ろには人がいて、音楽というものを通して、その瞬間、その居場所を共有しているわけですね、それがたとえ、生のライブじゃなくても。
本だったら、それこそ、「人と会話」しているようなものですよね。
もしくは、「人の話聞いている」感じと言えますね。
今の時代の人と共有しなくてもいい、できなくてもいい
さらに、居場所の共有は、必ずしも「今の時代」の人(のモノ)でなければならない、ということもないと思います。
もちろん、今の時代を生きる人たちとの間で居場所を作れたり、共有できたら、それはあたたかいものかもしれませんが、時代は越えていいものだと思っています。
例えば、音楽にしてもそう、本にしてもそう、将棋や囲碁とかもそうかもしれませんね。
将棋や囲碁なら、例えば昔の棋譜を見るとかっていうのは、まさに昔の人と「棋譜」という「モノ」を通しての関わり、対話に近いものであって。
自分の居場所を見つけるにあたって、「モノ」との間に見出せたらそれも立派な1つの居場所として認めていいと思いますし、その「モノ」自体も今の「モノ」である必要もなく、時代も越えていい。
モノとの間に居場所を作った後に、そのモノを介して人との繋がりも生まれるかもしれない
そうやって、モノとの間に居場所を作ったあとに、もしかしたらその「モノ」を通して、どこかのだれかと繋がりができることもあるかもしれません。
たとえば、釣りを始めたとしましょう。
最初はルアーと向き合い、餌と向き合い、竿と向き合い、そうやってモノと向き合っていくと思いますし、生き物としては、釣った魚と向き合うって感じでしょうか。
でも、それをしているうちに、もしかしたら川とか湖とか海とかで、近くにいる釣り人と挨拶を交わすことがあるかもしれませんし、釣り人とすれ違うときに会釈することもあるかもしれません。
そして、釣り場だけではなく、釣り用品を実店舗に買いに行くようになったりしたときに、そこのお店の人と「釣り」というモノを通して、会話が生まれるかもしれません。
そうしたら、それは、「釣り」という「モノ」と居場所を作ったことによって、副産物的に生まれた「人との居場所」の1つになるわけですね。
もちろん、これっていうのは義務とか目指さなきゃいけないものとかではなくて、あくまでおまけでよくて、生まれたらそれはそれでいいよね、くらいのものです。
「モノ」と関わることによって、そこに「時間」が生まれたら、それは立派な1つの「居場所」の1つになり得ると思います。
「モノ」だって、「モノ」だけど、「人」がその後ろにも、その周りにもいるし、「モノはモノだけど、ただのモノでしかないわけではない」から、「モノ」と付き合うことは別に冷たいとか冷めたことだとも思わないし、そこに自分の居場所を見つけてあげるのもいいことだと思います。
寂しいヤツだなとか思われても、言われても、そんな風にしか思えないお前の心の方が寂しいな、とでも思っておけばいいんです。
手がとどく、手を伸ばせる、そのモノとの時間の共有から、「時間」が生まれて、1つの「居場所」が生まれればいいと思います。
この続編とかもそのうち書ければいいなと思います。
『モノから始まる、居場所づくり〜準モノ編〜』
みたいな感じで。
それでは、最後までご覧いただきありがとうございました。
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追記:『モノから始まる、居場所づくり〜準モノ編〜』UPしました!
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もしかしたら役に立つかもしれない自己肯定感というものの話はこちらから読めます。シリーズ感のあるものです。
>>『自己肯定感を確実に高める方法〜大人でも大丈夫、9900通のメールからわかったこと〜』