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「自分らしく生きたい」「自分らしく生きよう」
近年は特に耳にしますよね。
ただ、そう思ったとき、『自分らしさってそもそも何だろう?』『自分らしく生きるためにはどうしたらいいのかわからない』というように感じたり、思ったりすることも多いと思います。
僕がこの考え方、この生き方に出会ったのは20歳のときでした。
そのときに、「自分らしく生きる」ということ自体にはとても憧れたものの、非常に漠然としたイメージしかなく、具体的に何をすればいいのかもさっぱりわからず、まっさらな状態でした。
このまっさらな状態というのは色んな意味でまっさらで、秀でた何かというのも本当に何もなくて、2浪して20歳で偏差値30台の大学進学という感じで、「立派な学歴」を手にしていたわけでもないですし、その当時は現役無名大生で、当時持っていた資格も英検3級、漢検3級、原付の免許くらいでした。笑
あれから7年が経ちました。
100%自分らしさMAXかといえば、それはよくわかりませんが、そこそこ、70%くらいは自分らしく生きるということを実践して来れたのかなとは感じています。
そもそも、自分らしさってある意味、一生探求し続けるものだと思っています。そして、一生探求し続ければいいと思っています。
一生探求し続けなくてもいいんだけど、一生探求し続けないということは、それは「自分自身を特定の像に固定する」ということで、そうなると「変化」や「想像を超えた発展」というのは生まれにくくなると思うんですよね。
なので、自分自身に対する「ある種の像」を明確にしながらも、一部、「まだよくわからんな」という部分も残しておくというか、自分に許しておくことが、未来の可能性にも繋がるのかなとは思っています。
なので、常に「自分らしさ」は「暫定的」なのものでいいし、その方がむしろいいんじゃないかなと個人的には思っています。
さて、前置きが長くなりました。
僕の体験談を少し交えながらお話ししたいと思います。
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とりあえず、光ってるけどよくわからない
20歳のときの自分は、特に社会的に認められたステータスを持っていたわけでもなく、そこらへんにいる大学生という感じで、もっといえば、そこらへんの大学生の中でも底辺をさまよってるって感じだったと思います。笑
そんなときに出会った言葉というか考え方、生き方が「自分らしく生きる」というものでした。
その言葉とかその考え方自体はすごく光っているように感じたし、なんだかカッコイイもののように目に映っていました。
ただ、それまでも「自分のものさし」ではなく、「社会純度100%」のものさし(偏差値やら大学名やら)で、ある種周りのみんなと同じことをやって生きていたので、社会的なわかりやすい成功ルートを目指して生きていたので、急に「自分らしさ」と言われてもわからない、という感じでした。
社会純度と自分純度
自分の中には「自分の考えや自分の気持ち」と「社会の考え、社会の目」というものが混在していると思います。
「あの人はこれがいいと言っている」「みんなはあれがいいと言っている」「世間はこれがいいと言っている」
そういう社会の考え、社会の目が自分の中にはあって、それと自分の考えと気持ちとで、自分の脳内を分かち合っている感じですよね。
で、「自分の考えや気持ち」を大事にするとしたら、
「あの人はこれがいいと言っている」→「自分はどう思う?」
「みんなはあれがいいと言っている」→「自分はどう思う?」
「世間はこれがいいと言っている」→「自分はどう思う?」
というように「自分はどう思う?」というところまでいく必要があるのかなと思います。
左の方の自分の中に占める割合が大きい場合には、「社会純度が高め」、右の方が大きい場合には「自分純度が高め」というように言えるかなと思います。
で、さらにこの右の右もあって、
「あの人はこれがいいと言っている」→「自分はどう思う?」→「自分はどうする?」→「自分は○○した」
こんな感じかなと思います。
どう思うか、という「思考とか感情」の部分に気付いたのち、じゃあどうするのか、という「行動」に意識がいくようになり、そして実際に「行動結果」として何らかの形になる、というように。
で、これを繰り返すことによって、どんどん自分らしさの純度が高まっていくというか、自分らしさの形成が進んでいくのかなと思います。
最初は、切り離して立ち止まって一度考えることを繰り返した
僕の場合、特に最初の頃は、一々「自分はどう思うか?」「自分はどう感じるか?」を考えていました。
別に誰かに言うためにとか、発表するために、とかではなく、むしろそれらはできなくてもいい、というくらいの感覚で、どう思うかとかどう感じるかということを紙の上に書き出してみたりしながら、考えていました。
例えば、最初の頃は、僕は「大人数は無理」みたいなのがあって(笑)、何をするにも、できる限り少人数の方が個人的には好きだ、みたいなのがあって、「自分らしさの一部」なんだろうなと捉えました。
自分らしさの一部というか、自分を構成する要素の一部というか、パーツというか、自分の基本性質の1つというか。
外の目を気にしないで、自分の気持ちに従える内圧
ただ、たとえば今挙げた1つ、「できる限り少人数がいい」みたいなものがあったときに、その次には、それをどれだけ自分の外の世界で実行できるかな、体現できるかな、みたいなのがあるわけですね。
言ってみれば、「自分らしさに気づく」だけでは、「自分らしさの体現」はできなくて、自分らしさを外に出せる心の内圧を高めていくことも、「自分らしさの体現」のためには、合わせて必要になってくると思うんですね。
たとえば、今の僕の例で言えば「大人数の飲み会をサラサラ〜っと断る」という話。
やっぱり、最初のうちって、『あんまり大人数の場が好きじゃないな〜』と思っても、『断ったら気まずくなるかな』とか『断ったらやばいかな』とか色々思って、むずかしかったりするんですよね。
(周りはそんなつもりは一切なくても)目に見えない「外圧」みたいなものを自然とというか、勝手にというか、無意識に感じて、「内圧」が負けて、結局「自分の気持ち」を尊重した行動ができない、自分らしさの体現ができないんですよね。
こんな飲み会断るとか断らないとか、1人が好きだとか、だから断ってみるとかで、「自分らしさ」だなんて大げさに言っていいのか、って話もあると思いますが、そういうところから始めれられればいいと思っています。
「自分らしく」生きている人って、結局「小さな自分らしさ」の集合体の「大きな自分らしさ」として、存在して、周りの目に映っているのだと思います。
最初はどんだけ小さくてもいいから「小さな自分らしさ」からはじめられればいいと思います。
内圧を高めるために
すこし話が逸れましたが、「外圧」>「内圧」の状態から、「内圧」>「外圧」となって、自分の気持ちなり自分の考えなりを自分の中で優先して、「自分らしさの体現」をしていくときに、「内圧」を高めることが大事になってくるわけです。
さっきの飲み会の例で言えば、「断ったら気まずくなるんじゃないか」「断ったら仲間はずれになるんじゃないか」みたいなのがあったときに、「その先」へ行く、という感じですね。
「断ったら気まずくなるんじゃないか」→「気まずくなっても大丈夫」「かまわない」
というように、そうなっても大丈夫な理由を探したり、それでもいいという意志を育てる、ということですね。
先に腹を括っておく、と言いますか。
そして、それと合わせて、日々、自己肯定感を育てていくことが大事かなと思います。
自己肯定感を育て、高めていくことができると、周りが肯定してくれなくても、自分で自分を肯定してあげられる力が育つので、数少ない友人がいてくれれば大丈夫だ、とどっしりできたり、最悪1人になってもやっていく、という覚悟が育って、自分の選択ができるようになります。
自分の感情に気づく、内圧を高める、実行する、形成される
今お話ししてきたような流れで、自分の感情や自分の考えに気づいて、それを形にして行くために内圧を育てていく、内圧を育てるために、自己肯定感を育てていく、そうしてできることを実行していく、ということで、自分らしさというものが形作られていくと思います。
また、この一連の流れ自体を、この一連の流れを行うこと自体を「自分らしく生きる」「自分らしく生きようとする」と言うのかなと思います。
今回は考え方の部分の話が中心になったので、具体的なエピソード的なところはあまり書けなかったのですが、またの機会に書けたらいいなと思います。
それでは、ここまでご覧くださってありがとうございました。
何かお役に立つ部分がありましたら嬉しいです。
内圧を高められる、自己肯定感の話
>>『自己肯定感を確実に高める方法〜大人でも大丈夫、9900通のメールからわかったこと〜』
自分の感情や考え方に気づいて、自分を知っていくための話
>>『自分の考えがない人が、自分の考えを持てるようになる方法』