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僕自身、2年間の浪人を経て、受験失敗し、
私大文系に進学しました。
受験失敗直後は、それこそお先真っ暗、
という感じで未来に絶望しかありませんでした。
ただ、そこから予想もできない世界との出会いを得て、
気づいたら20歳で起業し、24歳のときには一般のサラリーマンくらいの
月の稼ぎと1日の自由時間23時間というようなライフスタイルを実現し、
25歳のときには月7桁稼ぐまでになりました。
その後、27歳で2週にわたってメインゲストとしてお招きいただき、
FMラジオ出演を果たしたり、アーティスト、医師、作家、経営者、漫画家、占い師、
などなど、多岐にわたる方々のご相談に乗らせていただくようにもなりました。
受験生の時の僕は、「偏差値至上主義」みたいなところがあって、
よくもわるくも偏差値というものさしが自分の脳内の多くを占めていました。
そして、いい大学に行って、一流企業に勤めて、そこそこいいお給料をもらって、
いい頃合いで結婚して、というものが僕にとっての成功のイメージでした。
それゆえに、2浪もして受験大失敗したときには、
いい大学行って、一流企業に行って、
といういわゆるエリートコースは圧倒的なまでに絶望的になり、
もう生きる気力を失くしました。
きっと、当時の僕のように未来に希望が持てなかったり、
受験がうまく行くか行かないか不安で一杯、という人もいると思います。
あくまで「1つのケース」としてしかお役に立てないと思いますが、
それでも、受験をがんばってるからこそ苦しくなってしまう、
未来の自分の可能性を見失いそうになってしまう、という人の
少しでもお役に立てたら嬉しいなと思って、お話ししたいと思います。
受験がうまく行ったら、もちろん最高、
でも、もし仮に望み通りにならなくても、まだ未来に可能性はあるかもしれない、
そんな風にほんのりとでも感じていただけたら嬉しいです。
『どっちに転がっても大丈夫かも』
というささやかな安心感をほんの少しでも得られたら、
きっと、それはあなたの力になってくれると思います。
ということで、
2浪受験失敗からの人生転換のお話を少ししたいと思います。
Contents
浪人の決定
僕自身、最初は浪人というもの自体にも少なからず、
抵抗はありました。
同級生たちが大学1年生を迎えるときに、
なんとも宙ぶらりんというか、
まるで
「自分は身分のない何者でもない社会のハグレ者」
になったかのような感覚があって、
その感覚に最初は恐怖すらも感じました。
それまでは田舎のプチ進学校にいたので、
みんなと同じようにいい大学を目指し、
みんなと同じように勉強に励み、
みんなと同じように未来の大学生活に
ワクワクしていました。
現役のときは、東北大の経済学部志望。
模試はE判定ばっかりだったのですが、
当たって砕けろ、くらいの気持ちで受けに行きました。笑
そのときは、浪人したっていい、
1年遅れたっていい大学に行ってやる、
なんて気持ちで猪突猛進して玉砕したわけですが、
実際に浪人生になってみると、
社会からはみ出したようなそんな感覚がしたのは
確かです。
アホだったので、浪人が決まったら、
志望校を上げて、
「浪人してよかった」
と言えるようになろう、
なんて思っていました。笑
(もちろん、うまく行く人も沢山います)
で、河合塾から届いた手紙に
東大文類コースに入れます、というのと、
特待で結構な額を免除してくれるということだったので、
そのまま東大のコースに入りました。
日本トップクラスの超一流高校の卒業生たち
首都圏の校舎だったので、高校生クイズ常連校のような
東京や千葉の名だたる進学校卒の人たちがクラスメイトで、
そういう学校の人たちに会ったのは初めてで、
すごくびっくりした記憶があります。笑
ただ、この経験はあとから振り返ってみると、
とても大きな経験、価値になりました。
日本でも有数の超有名進学校の人たちというのは、
先にも言ったように、高校生クイズだったり、
当時の僕にとってはテレビの中の存在でしたので、
自分なんかが同じクラスにいていいのか…
と強く感じた記憶があります。
学校のクラスと同じくらいの規模感ゆえに
ただ、(当時の話ですが)河合塾でも、
東京の本郷校(東大志望専門校舎)とかじゃないとそんなに人数はいないんですよね。
東京の本郷校っていうところは確か1クラス100人くらいはいたと思います。
少しマニアックな話に逸れましたが(笑)、僕が行っていた校舎の東大コースは
東京の本郷校よりはアットホームな規模感で、学校の1クラスと同じくらいの数でした。
なので、さっき言ったような進学校の人たちとも距離感が近く、
みんながみんなを認識していて、本当に学校のクラスのような感じでした。
一緒におにぎりを食べて得た空気感
これはのちに自分で事業をすることになるときにも
大事になった要素なのですが、「空気感を掴む」ということが
この規模感だったからこそできた、と思います。
田舎の高校出身の僕としては、雲の上の存在に感じていた高校卒の
人たちと同じ空間、同じ時間を過ごすことは自分の中の枠を外す
大きな要因になりました。
アットホームだったからこそ、お昼をぶらぶら一緒に買いに行って
普通のお喋りを合間に楽しんだり、ときには河原に一緒に行って、
そこでおにぎりを食べながら将来の話をしたこともありました。
そうして時間を過ごす中で、偏差値や学力が上がるという以上に、
自分の雲の上の存在に感じていた人たちも
『自分と同じ人間なんだ』
『同じ19歳のふつうの男なんだ』
というのを感じたのが大きかったように思います。
それまで、「日本一」を目指す人「日本トップクラスの高校出身」の人たちなんて
「自分とはまったく違う生き物」なんじゃないかくらいに思っていましたから(笑)
もちろん、彼らはとても勉強しますし、勉強もできます。
「同じ19歳」だった
でも、「同じ19歳」だったんですね。
いかにもガリ勉!みたいな人はほとんどいなくて、
普通に高校のクラスにいたら友達になってたんだろうって
思うくらいの、いい意味で「普通」の人たちでした。
その感覚がもたらした成績急上昇
そうやって脳内の既存のイメージが崩れていくと、
自然とセルフイメージも高まり(重要な概念ですがいつか記事にします)、
成績も上がって、高校時代の志望校だった東北大とかはA判定が出るまでに
なっていました。
よしとけばいいものを。笑
ただまあ、成績上がっても、志望校も上げてしまってるので、
結局1浪目も受験失敗するのです。
で、クラスに2浪生が1人いたので、自分ももう1年だけ、
ということで2浪目を決意したのでした。
ただ、2年目は自宅浪人を選び、毎日近くの図書館に通って、
勉強して、という生活を送っていました。
で、ちょっと冗長になりそうなのでサクッといこうと思いますが(笑)、
2年目、東大A判定を出すものの、センター試験の国語で盛大にやらかす事件が発生。
その結果、センター試験の結果を用いる大学は国立私立問わず、
全滅することになりました。
一応一般で慶応経済受けたのですが、その年に限って、
数学でやらかして落ちるっていう失態を重ねて万事休す。
その結果、僕はもぬけの殻状態になるのですが、
3月下旬の時点でまだ出せるところに出す、
という感じで出願して、偏差値70から35の大学へ
進学することになったのです。笑
もう、普通以下しか残されていなかった。
こうなってくると、「2浪私大文系」ですから、
もう思い描いていたようないい大学、いい企業、というようなルートは
100%に近いくらい無理という状況になってきます。
まだ、そこそこの大学に行っていれば、何らかの難関国家資格を取るなりして、
「それなりの道」を歩める可能性はあったと思います。
ただ、ここまでくると、さすがに現実的に厳しく思えてきました。
しかし、僕の場合は、「今までの未来の選択肢」がすべて木っ端微塵に
なったからこそ、「今までの枠外」で考えざるを得ない状況がもたらされ、
結果的にその後の起業につながって行きました。
4年の間に、なんとか未来を見出そうと決意
とはいえ、ありがたいことに大学に進学させていただけることになったので、
その大学4年間のうちに、なんとか未来を見出そう、と思いました。
そして、大学が東京の端で、自宅からだと通うのが厳しい距離だったので、
上京させていただくことになり、もう本当に入学ギリギリの3月下旬に
アパート探しに行くことになりました。
最初は、インターネットでいろいろ探してみました。
そして、目星をつけ、いいなと思った物件を紹介していた不動産屋さんを
実際に訪れて、内見に行くことになったのです。
たった1人との出会いが僕の世界を180度変えた
そして、大学時代は東京でしたが、都内に比べて比較的家賃の安い
神奈川県内からも通えるところだったので、神奈川県内のアパートを見つけ、
小田急線沿線のとある不動産屋さんを訪れたのでした。
ここで、僕の運命を変えることになる、
『引き寄せの法則』
と出会うことになりました。
〜つづく〜
最後までお読みいただき、
ありがとうございました!