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分かち合いという言葉は、「おすそ分け」という言葉だったり、様々な言葉、言い方で古くから1つの文化として日本に存在していますね。
最近でも、「お金を稼ぐ」という分野においても、様々なことの分かち合いが大事で、その分かち合いによって、豊かさが生まれたり、豊かさがやってくる、とよく言われます。
しかしながら、心やさしい人だったり、思いやりがある人であればあるほど、そういった方向に意識が行きすぎて、苦しくなってしまって、破綻してしまうことがあります。
今回は、「分かち合いが上手にできない」「自分は心が広くないのかもしれない」「自分はケチなんじゃないか」と感じる人のお役に立つようなお話をしていきたいと思います。
出し惜しみしてしまうことのもう一側面
たとえば、「なんでも出し惜しみせず、分け与えなさい」というような言葉とか考え方というのは、昔から広く言われているものですね。そして、それは確かに素晴らしいことだし、素敵なことだと思います。
その一方で、「出し惜しみ」という言葉自体には、器量が小さいように感じさせるイメージや「自己利益の保守」というようなイメージがあって、あまりいいものには思われません。
そういった中で、『これはまだ自分の中でとっておきたいな』と感じることに対して、自分の心の中で葛藤があったりして、無理をしてしまってこころが疲弊してしまうということもあるわけですね。
ですが、この「出し惜しみ」というのは、その言葉の角度から見るとよくないようなイメージが強くなりますが、また別の角度から見ると「温存」というようにみることもできます。
こころの中のコップ〜こころのエネルギータンク〜
こころの中にコップがあって、そこにこころのエネルギーが入っているとしましょう。こころのエネルギータンクですね。
そのとき、「温存」するというのは、自分の中にエネルギーを貯める、ということですね。一方で、「分かち合う」「分け与える」ということは、「放出」と捉えることもできます。
もちろん、「放出」することによって、相手に喜ばれて、その喜びが自分のこころにエネルギーとして入ってくるということもあると思います。
ですが、『今は自分のこころの中であたためておきたいな』と感じる話や『もう少し手元に置いておきたいな』と思うものは、そう思った通りに、もう少し自分の元においておいて、「温存」しておいてもいいと思うんですね。
コップから掬い出すのも1つ、溢れたものを分かち合うのも1つ
どうして、「温存」してもいいのかというと、「温存」はいつまでもできるわけではなく、いつか「溢れる」からです。
たとえば、『これは貴重なとっておきの話だ!大切にしたい!』と思ったとします。もちろん、そう思ってそれを一刻も早く誰かに言いたいということもあるでしょうし、一方で、大事に自分のこころの中で少しあたためたいと感じることもあるでしょう。
そのとき、「分かち合いこそが素晴らしい!(=ケチはダメよ)」みたい観念が必要以上に自分の中で強い場合、本当は少しあたためたいと感じているのに、『こんなんじゃダメだ、エイヤー!』とこころに無理をさせてしまうことがあるわけですね。
でも、こころの中で少しあたためたとしても、「温存」したとしても、そのうちそれ自体(温存したいなと思ったもの)が自分の中で「あたりまえ」になっていくんですね。
例えば、「◯◯すればうまくいく!」という話を聞いたとして、『この話はまだあたためておきたいな』と思ったとします。ですが、時間の経過や実践の経過とともに、それ自体が自分にとって「ふつうのもの(ふつうの話)」になってくるんですね。
そして、自然と「次なる新しい成長」を求め、「次なる新しい話」を手にするようになるんですね。そうなったとき、かつて「温存しておきたいな」と思っていたものに対して、感情的にフラットになり、何の抵抗もなく「分かち合うこと」ができたりするんですね。
コップの話で整理すると、『温存したいな』と思っている時というのは、自分のこころにまだ少しエネルギーを残しておきたいな、というときで、その上で分かち合うということは、コップの中から掬って分かち合う、ということなんですね。
ですが、コップの中から掬って分かち合うというルートだけではなく、「新しい話」「次なる学び」など「新しいもの」が自分の中に入ってきたことで、自然と「かつてのもの」が溢れて出てきて、溢れ出してきたそれを分かち合う、というルートもあるということなんですね。
温存することは、確認作業をすることでもある
また、「すぐに分かち合わず、温存する」ことは、実はそれ自体いいことであるという側面もあります。
たしかに、受け取った何らかの豊かさをすぐに誰かと分かち合うことは、すぐに「ほかの人」の役に立つということであり、それは素晴らしいことであり、素敵なことでもあります。
ですが、「温存すること」で「ほかの人」の役に立つということもあるんですね。
どういうことかというと、「温存する」ということは、自分の中で「よく味わう」ということであり、「十分に咀嚼する」ということでもあるわけですね。たとえば、自分の中でそのものを反芻したり、それを実際に試してみたり、そういう風にするということなんですね。
そして、先ほど言ったみたいに「あたりまえになって、次なる新しい話(もの)がやってきて溢れたタイミングで分かち合う」ということは、それはすなわち「十二分な理解と実践と確認が済んだ上での分かち合い」ということもできるわけです。
そうしたら、もちろんすぐに分かち合うことにも素晴らしさはあると思いますが、「温存すること」によっても、「十二分な理解と実践と確認」が済んだ上で分かち合える、という素晴らしさがあるわけですね。
それもまた、結果的に1つのやさしさになるかもしれないですよね。
その時々で自由自在に使い分けてOK
『自分の元に残しておきたいというのは器が小さいのではないか』と感じたり、思ったりする人というのは、もともと、とてもやさしい人で「豊かな人」なんですよね。だって、本当に器が小さかったら、そんなことはそもそも頭をよぎらないのです。笑
そして、やさしい人であり、豊かさを十二分に見出して、感じ取っている人だからこそ、そういう力がある人だからこそ、今ある豊かさを分かち合わないと、という気持ちがとても強くなったりするんですよね。時に自分にダメ出しをしたり、自分を責めてしまうくらいに。
ですが、そうしてしまうと、自分のこころのコップからどんどん掬い出してしまって、それこそ自分のこころのコップの中身が枯渇してしまうほどに、そしてそれに気づかないままに掬い出してしまおうとすることもあるんですよね。
なので、『温存したい』『少しとっておきたいな』と思うことがあっても、それが必ずしもダメだということはなくて、今お話ししたような側面もちゃんとあって、逆にいい面もある、ということをこころの片隅に入れておいていただけたらいいなと思います。
そして、『すぐに分かち合う』のも『温存してちょっとしてから分かち合う』のも、自由自在に使い分けて、より自由で豊かさに溢れ、こころかろやかに過ごしていっていただけたらうれしいなと思います。
分かち合わなきゃ、自分は器小さいんじゃないか、と感じる傾向のある人ほど、温存してOKということに対して、少し意識の割合多めで大丈夫です。
今後のお役に立ちましたら幸いです。
それでは、最後までご覧いただきありがとうございました。